*灰色の思考は、20歳になる前に私の頭の中に形成された。
私は、もはや大人と見做されても無理のない「齢二十」を迎える誕生日その日へ向かって歩んでいたが、既に人生の意味を見失っていた。
「世界の超普遍的な絶対の真理とは、虚無である」
こんな考えに囚われてしまっているので、何をしようにも、その意味を見いだせなかったのだ。
生き方だの、人生観だの、何の話だろうとそこに正しい答えは存在しないのだ。
私の周りには、この世界に正解や不正解があると信じてやまない者達しかいないようだった。
己とこの世界が「虚無ではない」と、無意識のうちに信じている者、あるいは、この世界の本質が虚無だということを、知る機会のない者……
自分は何が好きとか、何が嫌いとか、嬉々として話し合う彼らの姿を見て、私は苦悩する。
私は、もう二度と彼らのようになれないからだ。
何かの熱狂的な崇拝者となる者、何かの趣味道楽にひたすら打ち込む者……
こういった人々は、人生の究極的な本質が「無意味」であるということに気づかない幸せ者、もしくは「人生には意味がある」と思い込んでいる無知蒙昧な者として、私の目に映っては、消えるのだ。
「本質的には無意味な人生に、自分なりの意味を見出すことが、生きるということなのではないか?」
私は、一瞬立ち止まって、こんなことを考えることが出来た。
一見して良い考えのように思えるかもしれない。
だが、この考え自体も、結局は無意味なのだ。
「〜なのではないか?」などと疑問的に文末を締めたところで、どっちにせよ、答えなんてないのだ。
全てに答えがないのなら、何もかも無意味ではないか。
そもそも無意味という言葉も無意味ではないか。
であれば、無意味という言葉自体が無意味ではないかと考えることも無意味ではないか。
であれば、無意味という言葉自体が無意味ではないかと考えること自体が無意味ではないかと考えること自体も無意味ではないか。
であれば、無意味という言葉自体が無意味ではないかと考えること自体が無意味ではないかと考えること自体が無意味ではないかと考えること自体も無意味ではないか。
であれば……
無限に広がってしまった思考輪廻の果て。
私は、考えるのをやめた。
私は、考えるのをやめようとした。
私は、考えるのをやめられなかった。
でも、私は諦めることになってしまった。
限界点で、降伏することになってしまった。
考えるのをやめて、降伏してしまったのだ。
そして、私は自分を騙さなければならなくなった。
人生に、何か意味があると思い込まなければならなかった。
人生に何か意味があると思っている人間を演じて、「生き始め」なければならなかった。
そのことを強いられた時、私の行動の全てには、鍵かっこがつくようになったのだった。
「もうなんかどうでもよくなったわ」
「人生楽しんだもん勝ちっしょ!」
「法律を守るのも大切だよ、難しいけど」
「俺はどっちつかずで生きるよ」
「時には極端な考え方も大事かもね」
「文系の抽象的な内容のセミナーあほくさすぎる」
「数字じゃ言い表せない世界も大切だよね」
「嫌いって感情は表に出さない方がいいだろ」
「いや好きなものには好きっていえよ」
「俺は断然ショートカット派w」
「どっちかって言うとクーペよりセダンかな」
「まーあんまり理由ないけど〜」
「自分結構色々考える人間なんですけど〜」
全てを演じて、すべてを演じなかった。
何も考えず人生を謳歌する人間を演じて、演じなかった。
常に何かを考えて人生を進む人間を演じて、演じなかった。
陽キャになったり、なれなかったり、陰キャになったり、なれなかったりした。
テキトーになったり、なれなかったり、真面目になったり、なれなかったりした。
演じるのは、下手くそだった。
でも、演じなければならなかった。
私は自分が見えなくなった。
私は透明になったのではなかった。灰色になって、世界のどこにでも溶け込むようになったのだった。
白にも黒にも、染まれなかったのだ。
私は、灰色だった。
いつのまにか、私は身軽になった。
身軽になった気がしただけだったのかもしれない。
ああ
一切れ五万円の、牛肉のステーキが食いたい。
無限に高級回転寿司を食いたい。
山盛りの二郎系ラーメンが食いたい。
道端を歩く美女と、一日中セッ○スがしたい。
そしてその後、ずっと、ずっと眠っていたい。